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井上義衍老師語録(生死は仏の御命)
2012-08-21 Tue 06:00
成願寺井上貫道老師坐禅会で頂いた「井上義衍老師語録」(プリント)からのご紹
介です。

生死は仏の御命
 人が死んだといいますと、死というものを問題にする。その問題にしているのは、
誰が問題にしているかといいますと、他人の死じゃなくて、人が死んだといいなが
自分のことです。

 いいですか、死に対する自分の見解なのか、自分自身のことなのか。何も彼も、
みな、この自分の上に、ちゃんと現われるようにできておるものです。
 人間、否すべてのものは生まれたから死ぬようになった。そういう活動体です。
死んだら活動はなくなるかというと、ある

 どのような活動かというと、冷たくなっていく、顔色がわるくなる、固くなる、叩い
ても、つねっても痛いともいわん、葬儀告別にて家族縁者、友人知人に見送られ
て家を出ていく、灰と骨になる、埋もれば土になる。これが人及びものの実体です。

「われ死なば、どこへもゆかぬ、ここにおる、尋ねするな、ものはいわぬぞ」 一休

 どこへもゆかぬ、行き場はないんです。ここにおる、こことはどこなんですか。普
段の心がけとして、今、触れて活動しておる、そのことだけ、底抜け。

 眼の本来もっている働きに任せる、底抜け。(老師手を上げて)これは、どこにあ
りますかというと、頭が動く、考える。その時は見えていない。故にダマされる。眼
はひとつもダマされんのです。
その時、その時の動きに学ぶと、どうあるべきかということが、きちんと分かるんで
す。
 道元禅師は「生は生なり、死は死なり」と申された。
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