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2013年3月坐禅会予定&井上義衍老師語録(少林寺カレンダー)です
2013-03-06 Wed 19:30
先週の土曜日は、第一・第三土曜日開催の中野坂上成願寺での夜の坐禅会に参
加してきました。
こちらの坐禅会の主催は、井上貫道老師坐禅会の世話人をつとめている豊島徹禅
さんです。

毎回17:30から3炷坐り、その後、短い時間ですが毎回禅語を題材に、豊島さんか
ら法話があります。

3月2日は、 「正法無表裏 当処無別事
”その事がその事として只有るだけ 気づいた時はもう無い”というお話を頂きました。


今週の土曜日9日(土)は、毎月1回の同じく成願寺で「井上貫道老師坐禅会」
開催されます。
9:30止静(坐禅開始)、昼食をはさんで午後1炷坐って、老師提唱、茶話会と続き、
16:30頃終了です(途中からの参加も可能です。いずれの場合も事前に電話入れて
おいた方がスムーズだと思います)。

参加要領は、上記リンクの以前の記事をご参照頂ければと思います。


以下、2月の涅槃絵摂心でお世話になった静岡掛川の少林寺のカレンダーから井上
義衍老師語録のご紹介です。

  本来空

 我見をこれから離れるのではない。
 我見の起こる前があって、その前が自分の事実です。
 それが本当の私どもの心のあり方です。


 我見といわれるものは、認識作用で何も実体はないのです。

 空にする前に空であった事実が、そのまま「ズバッ」と、みな。それだけでいい
 んです。
 それをやると、必然的に人我の見というものが、みな離れる。それが「道」です。
 それが坐禅の一番大切な様子です。


  知は是れ妄覚

 無明とは、認識ということです。認識とは、ものを認める心、ものを認めて執着を
 する。
 それでだまされるんです。人間生活というものは、この認識以後の生活者なん
 です。 因果のほかに全く道なしと看破された。因果を看破するうえに極めて重
 大なことがある。

 それは、自己が法を見るのと、法が自己を見るとの相違である。己見があれば、
 それだけまじり気がある。不純である。


 『自分を抜きにした生活は在り得ない。自分そのものに学ぶ、自分そのもので生
  活をする。それを坐禅という(玄魯)』


 <以上、曹洞宗少林寺カレンダーからの引用でした>
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